私が言語学に足を踏み入れたワケ--といっても,あえてもったいぶって披露するような奇才伝説や感動ストーリーがあるわけではない。特に外国語などに興味があったわけでもない。それどころか,そもそも言語学などはいかにもおもしろくもなさそうだと思っていた。



それを大きく変えたのは,大学2年の時に取った西江雅之先生の「人類言語学」という授業だった。これがとにかくおもしろかった。西江先生自身の魅力も多分にあるのだが,ことばを使った伝え合いの中で起こること,そしてその不思議が幅広く捉えられていて,毎回かぶりつきで聴いた。その中で,「ことば」という現象がいかに多面的で,我々の社会生活,ひいては我々の存在自身に大きく関わっているかを見ることができた。ことばと自分の存在のあり方のつながり,それが見えたことが言語学に向かって歩み始めたきっかけなんだろうと思う。

そこから,ソシュールにはまり,さらに言語相対論や言語と思考の問題に興味をかき立てられ,ウォーフやサピアなども読んだりしていたら,言語学専攻で研究をする方向に進んでいた。

大学院はアメリカに渡ったが,修士課程の時はいろいろなコースを幅広く取らされ,その中で自分の言語研究の方向性がはっきりしてきた。生成文法を勉強したときだった。コースは厳しいながらもおもしろく,課題のペーパーも割とうまくかけて,それを基に初めての学会発表をしたりもした。しかし,そこではなにかしっくりこないものがあった。人間が見えなかったのだ。言語現象を説明しようとするときに,言語を使う話者や発話が起こる場などが考慮に入ってこないのだ。もともと,人の営みとしてのことば,人の存在のあり方と不可分である言語現象というところから言語に興味を持つに至った私にとって,「人間不在の言語学」はいかにも味気ない気がした。

言語学の醍醐味は,人間言語に見られるシステム性を捉え,さらにそうしたシステムがどうしてそうした形を持つに至ったかを説明していくことにある。システムとしての言語というのは,一つ一つの発話の具体例から抽象されたレベルでの話だ。しかし,そうした抽象的なシステム的側面を考える上でも,言語が,人と人との伝え合い,はたらきかけ合いのなかでおこるダイナミックで人間的な現象であるということを常に見失わずにいたい。言語はどれも独特の癖があり温かい。その癖とぬくもりが何ともいえずいい。